昔の日々@日生劇場

作:ハロルド・ピンター
演出:デヴィッド・ルヴォー
翻訳:谷賢一、美術:伊藤雅子、照明:笠原俊幸、音響:高橋巌、長野朋美、衣装:前田文子
ディーリー(夫):堀部圭亮、ケイト(妻):若村麻由美、アナ(ケイトの旧友):麻実れい

バレエや舞台を観にいくと毎回大量の公演チラシをもらうのですが、そこで目にとまった「昔の日々」は3人でのお芝居、記憶の物語というのに惹かれ、演出家ルヴォー氏のアフタートークのある7日のチケットを買いました。

観劇にあたりハロルド・ピンターの作風を知ろうと図書館で検索してみると、「昔の日々」が3巻目に収録されている新潮社の初期の全集はなぜか1巻しかない。あとは後期の作品集がハヤカワ演劇文庫から2冊。仕方がないので初期全集の1巻目と、後期の1巻目を借りて読んでみましたら…「うっこれは…」と後ずさりしたくなるハードルの高さ…。会話が成立してるような、してないような、もやもやする言い回しがあり、せっかちなわたしはちょっとイライラしつつ「温室」を読みました(笑)いやいや、演じられたらまた違うんだよ、うんうん、と自分を勇気づけて当日。


中央に正方形の張り出しの舞台。赤い絨毯に赤いソファが2客、赤い肘掛椅子、スタンドライト、小さなサイドテーブル。舞台奥には荒涼とした風景のなかに暖炉と応接セット。日生劇場の洞窟みたいな作りとあいまって、品がいい調度品なのにグロテスクな印象を与える舞台。クジラの胃袋とか…大きな動物の内臓を想起させた。

本編が始まると張り出し舞台のふちの照明が灯り部屋の輪郭を強調し、背景に壁ができて奥のセットはまったく見えなくなる。3人がいる部屋に観客の視線が集中するのと同時に、閉塞感が強まる。大きな会場であるのに、狭く息苦しい。それはそのまま、舞台上の3人の醸し出す空気でもある。


ロンドンで刺激的な日常を送っていたケイトは結婚し、今は郊外でのんびりと平凡な日々を過ごしている。そこへルームメイトだったアナが突然訪問してくる。動揺を隠し切れないケイト。いつもとは違う様子の妻をちょっとからかうように楽しむ夫。しかし旧友アナの「わたしはケイトの過去を、すべてを、知っている」という挑発的な態度に、夫は次第に敵対心を持つ。

表面上は穏やかに、和やかに会話を楽しんでいるかのようであっても内心は互いの思惑を探っていたりイライラしていることを、煙草を吸うことや紅茶やブランデーを飲む仕草が伝える。

アナを避けているようであるケイトが時折うっとりとアナを見つめ、アナも慈しむようにケイトの髪を撫でる。そういうことを、夫がひとりで話して、余所を向いているときにするわけです…これはもう完全に二人の世界でね…非常にエロティックなシーン!

ケイトを演じた若村麻由美さんは「この人のためなら人生を棒にふってもいい!」てわたしに思わせる色気があり(まあ迷惑でしょうがw)、それに対して宝塚の男役トップスターだった麻美れいさんの知的な美貌と立ち居振る舞い…はあああ…と変な息が洩れそうなのを必死に堪え、ときおりニヤつきながら鑑賞しました。耽美で眼福。エロかった…。アナの「あの子はわたしが見つけたの!!」の台詞には萌えすぎて吐血する勢い(カハッ


1時間25分、場の転換が1回。集中が途切れることなく没頭して鑑賞したので非常に疲れましたが、おもしろかった。過去がどんどん明らかになっていく、この3人の関係が変容していく様子がとてもエキサイティングでした。ちょっと厳しいことを言うなら夫役の堀部さんがもっと強めにきてもよかったんじゃないかなーと。若村さんは憑依系女優って感じだったし、麻美さんの土台に「型」があってロジックに役を生きてる感じと比べると、必死についっていってる感じがあってな…。でも全体として不満はまったくない。わたしは前方席で鑑賞したので濃密な時間が体験できたけど、席が遠いと受け取れないことが多いお芝居かもしれないなと思った。席、大事。ただ嫌煙家の方は後方席にしたほうがいいです(笑)


ルヴォーのアフタートークで印象に残ってること:

なぜ劇場では新しい表現が常に生み出されるのか。必要だからだ。ひとは慣れると注意を払わなくなる。いつも居るひと、いつもあるもの、次に起こることがわかることへ人は関心を寄せない。
役者へも稽古のときに”今あなたはここにいる”のか?と必ず聞く。相手のセリフを知ってることで、本当に相手の言葉を聴いていなかったのではないか?と。

ベケットのアシスタントをしている頃、全曲シェーンベルクというコンサートへいったことがある。第一部は初期の作品で19世紀的な情緒のある音楽だったが、第二部が十二音技法の曲であった。一聴では不協和音で全く別の音楽のようであるけれど、そのコンサートで初めて二つは同じものだ!と思った。

ベケットもピンターも既存の劇作家とは異なり、本来あるべき道筋を繋げる「橋」がなかったり、話が凝縮していたり、ねじれてタイトになっていたり、非常に「現代的」な劇作家と言われている。けれど、その中はどうだろう?シェーンベルクと同じで見せ方が違うだけなのではないか。

「昔の日々」は過去が追いついてくる話だ。それぞれが自分の都合のよいように過去を記憶しているが、いつか必ず過去はわたしたちに追いつく。
過去とは自分が生きてる分だけでない。ひとは何百年という歴史的な時間を背負っている。劇場に人が集まることは、その過去を祝祭しているかのようだ。


そして、張り出した舞台は能からインスピレーションをもらったそうだ。以前来日したときに見た能は、30年旅をする男の話だったのだが、ただ舞台を斜めに歩く、その道のりだけで30年の経過を表現し、観客も30年経ったと認識した。これは魔法だ!と思ったと。

わたしは能を知らないから、演目が分からないけど、いかにもありそうな演出です。「昔の日々」でも場面転換でケイトがタオルもって部屋のヘリをただ歩くところがあるのだけど、本編が時空がゆがんでる(過去と現在の境界が曖昧、入れ替わりがおきてる)から、あの歩いてるのがケイトの「今」なのかと思ったりして、理解するヒントがたくさん得られたアフタートークでした。