ピダハン

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

久しぶりに、趣味に関係ない、本来のわたしの興味の趣く本読めた(笑)
ペルシャとかバレエ関連本は半分「勉強」て感じがあるのでな。

アマゾン、少数民族、わたしの大好きな分野です。面白かった〜。

著者は言語学の研究者で且つキリスト教プロテスタントの伝道師だった方。「だった」と過去形で語らねばならないわけがある。言語学のおおもとはキリスト教を広げるため。聖書をその民族の言語に翻訳し、神の存在を、信仰を、伝道するため。

自然のあるがままに、と思いがちなわたしからすると(民族同化政策とか心底憎い)、その目的からして「うへえー」て感じなのですが、長年のアマゾン生活で著者はまんまとピダハンに感化されてしまったのです。その様子がすごく面白い。

でも信仰を失うということは(神も仏も精霊も生霊も信じちゃう、あるいは全て信じない)わたしたち日本人が思うほど生やさしいものじゃなく、人生の土台が変わってしまう、人間が生まれ変わるみたいな衝撃的なことなわけで、そこに至る経緯が冷静に書かれてはいたけれど、想像するとすごいことだなあと思った。

しかしこれはあくまでも「言語学」の本。ピダハン語の文法や声調なども詳しく記述されてます。いままで「なあなあ」であった学説にも真っ向勝負してきたらしい著者ならではの物言いも痛快。

そしてピダハンはすごく幸せそうだなあ。ピダハンは左右の別も、色の名前も、数も、神話も伝承も信仰もない民族。価値観がすごく興味深いです。アラスカを長年取材してた星野道夫さんもよく本で書いてらした記憶があるのけど、世界のなかに自分の知らないもの、知らない生き物が、実際に自分が行かなくても見なくても、それが確かに存在してると思うと「安心」する、というような感覚と同じかもしれない。

自分とはまったく違う価値観で生きてる人がいると知ることは日々傲慢に過ごすわたしを平手打ちする。「わたしの常識」を他人に押し付けたいわたしを諌める。「わたしの常識」なんていうちっぽけなものが通用しない世界がたくさんある。それが心地いいんだな〜。

わたしは世界と「わたし」のズレを楽しみたい。そういうのを面白がれる人間でいたい。