角田記念日

ツリーハウス

ツリーハウス

昨年9月27日に東京大学山上会館にて収録された作家・角田光代さんと東京大学教授・沼野充義さんの「人が歴史の中で生きるのはどういうことか──小説『ツリーハウス』を巡って」という講演記事を読んだ。とてもよい記事だったので備忘録として書きとめ。*1


・日常の小さなこととは正反対の話を書きたいと思った
”日常をみんなで書いてどうするのだという気持ちになりました”こういう率直なところがいい(笑)角田さんの言ってること、やってることを信頼できるのって、こういうところだよなあ。以下引用。

6、7年前の戦後60年のとき、ヨーロッパの作家が戦争に題材をとり、戦争は辛かった、大変だったという話ではなくて、フィクションを加えて小説としておもしろいものにして書き始めたという印象があったのです。ただ、日本にだけそれはありませんでした。
 戦争は辛かった、悪いものだという視点で若い人が書くのは何なのだろう。日本でこの時代のことを書くと、戦争を体験している70、80代の人が「こんなものじゃなかった」と言うから、書かなくなる。このままでは私より若い人はもっと書かなくなってしまうという思いがありました。

・人々は事件の渦中にいるとき何が起きているのかわかるのか?

例えば今、放射能のことをいろいろ言われていますが、これについて何か言えるのはもっと時間が経ってからで、今は何が起こっているかわからなくて、いろいろな情報があって右往左往してしまう。ただ自分の場所にいて、自分の生活をするしかない、ということだと思ったのです。

・誰の文体か絶対わからない文章を書こうと思った

自分の文体を持て、文体は顔であると編集者からたくさん言われて、文体とは何かとずっと10年くらい考えました。「比喩かな。でも比喩でもないし、文体って何だろう」って。
10年考えて、考えるのがいやになったんですね。もう文体のことは一切考えない。文体はいらない。私は文体を考えるのをやめようと決めて、誰の文体か絶対わからない文章を書こうと思ったのですね。角田の書いた文章とはわからない、無個性、そっけない文章を書こうと思ったのです。文体と縁を切るというか。

沼野先生も「『ツリーハウス』を読んで非常に感心したのが、簡潔で力強くてよい日本語だということです。例えば、もってまわったような気取った比喩はほとんど使ってない。角田さんの文体は非常に姿勢が正しい、現代日本語の鏡のようなよい日本語で、日本語を勉強する外国人みんなに読んでもらいたいと思います。外国語に訳すにしても、すっと訳せて快感があるのではないでしょうか。連作小説集の『福袋』などには、現代の日本の雰囲気もよく出ているし、しかもそれが過度に現代的に崩れてもいない。非常によい日本語だと思います。」と大絶賛しているのも嬉しい。

数年前、角田さんが講師の「言葉の使い方」のワークショップに参加し、小説の書き方を教えていただいたことがある。*2そのとき角田さんの言葉の選び方についての信念みたいなものを感じたなあ。それ以降、それまでの「ただ好き」ということに加えて、「信頼できる」作家だなと思うようになったんだ。

久しぶりにそのときの日記読み返したら、いいことたくさん教えてもらってた〜。全然活かしてない〜(涙)

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『紙の月』もすでに書店に並んでいるだろうから、これもチェックしなければ。

と、この日記書いてる途中で日本アカデミー賞で角田さん原作の『八日目の蝉』が作品賞をはじめとして10冠に輝いたということで、ツイッターで角田さんにお祝いメッセージつぶやいたら、メンションいただけた〜。感激!というわけで勝手に3月2日を角田記念日にしておこう(笑)

*1:http://www.wochikochi.jp/topstory/2012/02/treehouse.php

*2:といっても創作したことは一度もない。ファンをこじらせて参加したのです…毎度の事ながら…ほんとに困った性格