非実在夫

金曜日の羊会で友人の旦那さんから「まさわさんの夫は本当に実在するの?」と訊かれた件。

わたしがネタのように夫のオカシナ言動を披露しているせいか「そんなへんな人がどうして恋愛対象となりうるのか」と疑問があったようで、非実在疑惑を晴らすべく証拠として、絶対に他人へは見せないラブリーな笑顔の夫の秘蔵写真を見せたのだが、それを見たあとでも「こんなのネットで拾えるよね」と否定されてしまった(笑)

職場でも小夜ちゃんに「旦那さん変人じゃないですか!」と言われ、あなたに言われたくないよ、きみだってオカシナ子だよと思ったのだが、存在まで疑われるとは新しい!それともあれか、わたしは妄想夫を嬉々として語る、そんな痛い女と思われていたということか…。


「デートもしない、趣味も合わない、味覚も違う、それでなぜ結婚できるのか?」とよく聞かれる。

わたしはそういうとき“同じである”ということがそんなに大切なことだろうかと思う。なぜ彼に興味を持ったかと言えば、全くわたしと違っているからだ。わたしと、でなく今まで出会った人と、全く違っていた。強烈だった。他人を必要としてないので自分をより良く、大きく見せようという下心もなく、力のあるものへ阿ることもなく、自分の思考にのみ根拠があり正義がある。飄然としていて、自分のことをよく知っている。実に「サイズ合った服着てる(中村一義“ジュビリー”より)」人だなぁと思った。

一時期わたしはほとんど思考にずれのない人と一緒にいたことがある。そのときのわたしは今思うととんでもなく傲慢だった。1を言えば10まで理解し合える人と長い時間いると、ずれのある人と出あったときになぜか軽蔑してしまうのだった。どんどん視野が狭くなり、許容量が小さい状態になっていることに気がついたとき、怖くなって離れた。相手は非の打ち所のない人物だったにもかかわらず。

確かに夫は日常生活のほとんどに関心が低いので「どうしてこの人は…」と思うこともあるけど、わたしの思うとおりになる人だったら退屈だし、長く一緒に暮せない。こういう人もいるよね〜変えられないのが個性よね〜なんて軽く考えるようになったら、自分と違う意見や思考を持つ人への否定的な気持ちは薄れてきたし、逆に殊更、他人へ「共感」を求めることもなくなった。だからといって人類愛に目覚めたわけでなく、相変わらず苦手なタイプの人はいる。そういう人とは関わらなければいいだけだ。そうできなければ一歩進んで、嫌いな人には嫌われたほうがハッピーなこともある。

夫は自分に合うか合わない人かを一瞬のうちに見破ってしまうせいか、好きな人にはとことん可愛がられ、嫌いな人にはものすごく嫌われがちである。わたしたちが結婚したときも、式や披露宴をしないことを知った彼の職場の上司と先輩が、その年の忘年会に彼には内緒でわたしを呼んで、お祝いしてくれたことがある。その忘年会というのが100人を超える大宴会で、ステージ上でケーキ入刀させられたときはかなり驚いたが(スーツ軍団の中で、わたしは普段着だった)、職場でちゃんと居場所があるのね…と妙に安心した(笑)

人間的に興味深いと、もう趣味とか味覚とか付属品でしかないというか、どうにでもなりますよ。もともと趣味なんてもんは個人で楽しむものだし。味覚も相手が美食家だったら困ってたと思うけれど、美食に興味ない“お子さま舌”なので、ごく普通の家庭料理で満足してくれてるのはむしろ有り難いくらい。

“違うこと”って発見だし、面白いこと。活性であり、革命である。と偉い人も言っている、たぶん。