読了

アラスカの捕鯨村滞在記というのにひかれて借りた。その村はチャリオット計画*1の舞台でもある。これはおもしろそう!とわくわくして読み始めたのだが、ちょっとずつ違和感。たとえば鯨漁をするときにの銛を見て「やはり命を奪うものを見るのは胸が痛い」という件、わたしは冷酷なのかわからないが生き物を殺して食べることを全く可哀想とは思わない*2。ましてや食べるものが限られている環境で生きていく彼らに、「命を奪う」とか「胸が痛い」とわざわざ記す意味がわからない。結局こういうことを言う人は、動物は血を流すから可哀想と思うのか?まるで植物のようにちょっと汁がでるくらいで鳴きもしなければ、同じように思うだろうか。植物が鮮血を流したら、可哀想なのか。
あとは「個人主義になった日本社会には(中略)助け合い、人情が薄れてきた」というのも、日本にあまりいないような人が、いてもたぶん東京のど真ん中に暮らしているだろう人に、イメージだけで語って欲しくない。ちょっと郊外へいけばまだまだ土着文化、近所の監視社会は健在している。そういう和に自分が所属してるかどうかの問題だろうに。
一番ダメだったのはアラスカの若者もドラッグ中毒やアルコール依存症が問題になってる件で「心に存在する闇がそうさせる」と書いたこと。「心の闇」、大嫌いな言葉だ。この言葉で片付けたら思考停止だと思う。心に闇なんかない。不安も希望も怒りも喜びもすべてひっくるめて心だろう。「心の闇」が犯罪に向かわせると言ってしまったら、罪を犯さないわたしとあなたとでは違う、ということでしかない。鯨漁の頭領とのやりとりを通して「物書きとしての覚悟を決めた」出来事を書いたあとに、こんな手垢のついた言葉を遣うセンスはなんなのだ。題材がとても良いし、すばらしい経験をしているのに、本当にもったいないと思ったのだ。もっと言葉に神経質であってほしい。だって開高健ノンフィクション賞を獲った作家でしょう?

*1:水爆によって村から40kmしか離れていない岬を爆破し港をつくる計画。放射能汚染が懸念され環境活動家や村民の反対により1962年に中止。しかしその後、秘密裏にネバダ核実験場で放射能汚染された土砂を埋められ、永久凍土での放射能浸透の実験・調査されていたことが1992年に発覚。その谷で狩りをしていた村民のガン発症率が増加している

*2:これは生きていく分だけの適切な、という大前提で