合掌

11月2日 午後1時25分 父が亡くなりました。69歳でした。

11/1の日記のとおり、前日に10日間の入院を告げられたときは、父本人も家族の誰もが「いつもの入院」と思っていました。心臓疾患や慢性の肺疾患を抱えていた父は、これまでに何度も入院し、そのたび元気になって家へ戻ってきていたからです。
今回は喘息の発作が重かったこと、腰痛を緩和するために痛み止めの注射を初めてしたこと、心臓疾患の薬の副作用で出血が止まらなかったこと、どれかひとつが原因と特定できないと医師も解剖をすすめたくらい、いろんなことが重なって、あっという間に旅立ってしまいました。
入院した当日の夜容体が急変し、22時に呼び出された母と姉1が駆けつけたときには、すでに意識はなかったそうです。翌日わたしと姉2が会津へ向かう電車のなかで、父が亡くなったと知らされました。あと1時間で病院に到着する、そんなタイミングでした。
母の希望により病理解剖は行いませんでした。わたしが父に対面したのは清拭したあとの穏やかな顔でしたが、昏睡状態の父のあまりの変貌ぶりを目の当たりにしていた姉1は悲しみも深く、医師にも責めるような言葉を発したようです。母はなにをしたところで戻らない、すべてを受け入れようと考える人なので、母の決断をわたしも尊重しました。

あまり社交的な父ではありませんでしたが、4日の通夜、5日の告別式、両日ともにたくさんの人に見送られました。内弁慶で仲間内では冗談やオヤジギャグを連発していたお調子者の父は生前「おれは葬式向きじゃないんだよなぁ。」と言っていました。たしかに父が喪主を務めた祖父母の葬儀のあとでも、だれよりも大きな声で親戚を笑わせていました。それを反映してか、今回の見送りのあとにみんなでお酒を飲みながら、父の笑い話をしました。はじめて聞く話も多く、わたしの知っている父だけが父のすべてではない、という当たり前のことに気づきました。

まだ父の不在に実感が伴いません。まだまだしばらくかかるのだろうと思います。 ただ、すごくいろんなものを知らずに受け取っていたんだと、それだけは知ることができました。父だけでなく母も、わたしの想像が及ばないくらいの苦労や困難を越えて家族になっていったこと、周囲の人たちに気を配り続けていたことを知り、驚きました。ジョン・レノンマイケル・ジャクソンみたいな英雄ではないけれど、こんなにも身近に博愛心を持った人がいたんだと、大げさでなく思ってしまった。ぜんぜんわかってなかった。でもそれを子に悟られないのが親なんでしょうか。親にならないまま、子どものままで父を見送ったわたしにはまだわかりません。
告別式では姉1の子、甥1(10才)と姪1(5才)がお別れの言葉を贈りました。隣町に暮らしている二人はともに「じいちゃん子」で、父の棺に自分たちの言葉で書いた手紙をいれてほしいと言ってくれたので、葬儀でも読んでもらいました。姉2の子、甥2はまだ3歳で「死」というものを理解していません。それでも父のためにお線香をあげたり、お供えのお膳を運ぼうとしたり、ときたま「おじいちゃん、死んじゃったんだよね」と小さな声でいかにも悲しそうに言うので、大人のほうがどきっとしたり。そんな「孫」たちの様子を見ていて、子どもを産む凄さ、血が繋がっていく強さ、とてつもなく大きな流れのようなものを感じました。だからといって、わたしも子どもがほしい、なんて単純に願ったりはしませんけれど、でもやはり、孫と楽しい時間をいっときでも過ごし、見送られるというのは「幸せなもののうちのひとつ」であることは確かなのだろうと思いました。それを叶えてくれた姉二人に、とても感謝しました。

身近な人にこそわがままを通し、聞く耳を持たなかった父ですので、母にとって不条理なことはたくさんあったでしょう。でも亡くなってしまったら全部消えてしまう。葬儀の段取りをするにも「こういうのはお父さんに聞いてみないとわからない…」と何度も思って、その度ごとに父の不在を思い知ったと母は言いました。亡くなった日から初七日を終えて今日まで、わたしと姉2、甥2の3人は実家に泊まり母と過ごしていました。小さな子どもがそこにいるだけで、いくらか母の気がまぎれるだろうと思ってのことでした。家族5人で暮らしていたときにはやや狭かった家も、ひとりで過ごすには大きく、母がこれから一人で暮らしていくことを考えると切ない思いがします。

今まで周囲のことなど省みず好き勝手に行動してきたわたしですが、今回のことで視野がすこしだけひらけたような気がしています。これから行動が伴うかが肝心ですけれど。母を「見守る」なんてタイプではない旧式の男だった父に頼むことはできないから、これから姉たちと協力して母の力になっていきたいと思います。

お父さん、あなたのつくった家族はなかなかよかったよ。

合掌