ジグソーパズルは嫌い


学校の正門脇の並木道がドングリでいっぱいだった!一歩足を踏み出すたびにパキパキっと香ばしい音が鳴る。ドングリだなんて、やっぱり秋近しなんだわ〜!とうれしくなった。ほわほわの布団にくるまったクヌギのドングリ。中はまだ青かった。昨日まで“夏恒例『よつばと!』再読祭り”で、よつばもドングリ拾いに燃えていたんだ。わたしはもう(だいぶ)大人なので拾いません。誰も見ていないときを狙う(結局拾うのか!)

昨日は職場の飲み会で、酒豪でかしましい女性たちと大笑いしたり、一滴も飲めない男子と職場の人間関係について語り合ったり、行く前はかなり億劫な気分だったけど、なかなか楽しかった。さすが酒のチカラ?
一度就職してどうしても合わないっと研究室に戻ってきた人がいるのだけど、その彼が面白いことを言っていた。「会社はジグソーパズルみたい。絶対に正しい答え(=利益)があることしかやらない。ただその手段を効率化するだけ。僕は先がわかってるジグソーパズルが大嫌いなんです。わかってることをやるのって退屈でしょう?知らないこと、わからないことを見つけていくのは本当に面白いんです」と。この研究者らしい言葉に、うっすらと感激してしまった。

これとはちょっと違うけど、わたしは“共感する”ことの重要さがよくわからない。わたしの目線が届くだけの狭い世界しか知らないけれど、そこで目につく「共感主義」とでも言うのかなぁ。本のレビューなどを読んでいても「作者の意図するところがわからなかった/登場人物に共感できなかった」から「つまらなかった」という感想を書いてる人が多くて、ちょっとびっくりする。自分で理解できることだけを「面白い」と思うようなら、もう本なんか読まなくていいと思うんだよ。本やら映画やら、人と会って話をすること、ちょっとずつわからないことがあるから「面白い」んだとわたしは思ってた。とくに本は、エッセイでも小説でも、わたしの言う「面白い」は必ずしも「共感した」ではない。この作者にはちょっとだけイライラするけど、文章がいいから読んじゃう、というのもあるし(笑)言ってることが難しくて完全には理解できてなくても、ぼんやりと面白いとか。
みんなそんなにパズルのピースみたいに、ピタ!ピタ!とお互いにハマり合わなくていいんだよ。「どうしてもわかんない」が「いちばん面白い!」に繋がる日だってくるよ。

写真は「この夏食べてないじゃないか!」とハタと気がつき、慌てて今日食べた冷麺。