つらつら思ってることなので、まとまりないけど書いておく。「穢れ」という感覚について。

わたしがここ数年嫌悪感をおぼえる言葉に、アンチエイジングデトックスというのがあって、外見の若さを手放さないばかりか中身の未熟さをも恥じない風潮とか、生きていくということは毒素が溜まること前提で自分だけは清浄であろうと心血そそぐ潔癖さとかを感じて、大げさでなく鳥肌立つほど嫌い。

こういう言葉を平気で使う人にわたしは魅力を感じないので、たいていは心の中で茶化していればいいんだけど、なんかもやもやすることも多い。それは病気と関連づけられたとき。

生活習慣病という名前ができてから、病気にかかることは自分の管理次第で防げることだとされるようになった印象がある。病気にならないように「自己管理」をする。病気になる人はそれができない人。喫煙、飲酒、肥満、不規則な生活…身体に余計なものを溜め込んで、意志が弱くてダメな人というレッテル貼り。

“世界は汚れていて、経年によって身体は徐々に汚染されていく”“生まれたときは清浄であった”という幻想がより強化され、なんとか汚れた身体をきれいにしたい、若返りたい、生まれたころのまっさらな身体に戻りたい…欲望はエスカレートするなかで、病気によって「汚染」は二度と立ち上がれなくする杭となる。

こんなふうに老化により衰えること、病気により衰えることが「穢れ」と同化して忌避の感覚がとても強いように感じられる。わたしの思い過ごしだろうか。なんなんだろうなぁ。わたしは生まれたころが虚弱で、体の具合の悪いのと付き合うことや、大人になってなぜかどんどん元気になってしまったのもあるせいか、余計に強く違和感をもつのかもしれない。

なんかまとまらないけど、ただ「穢れ」の感覚は差別の根底になるわけだから敏感でありたいんだな。