ミツバチの羽音と地球の回転

東電の事故の前から気になってはいたけれど、見る機会がなかった『ミツバチの羽音と地球の回転』、渋谷最終日に間に合った。関心が高まったこともあり、6月にまた再上映されるようだ。

事故の前、「原発反対」という言葉はわたしから遠く離れた知らない土地のものだった。福島にはわたしが生まれる前から原発があったし、福島のなかで会津地方というのは幕末に“中央から見放された”土地ゆえに内輪で凝り固まって自己完結してるところがあり、浜通りの問題を自分たちの問題とする意識はたぶん薄かったと思う。いまだって、自分たちは補助金だって、東電の高い給料だってもらってないのに放射線は降り注ぎ、ただ迷惑を被ったと思っている人もいるかもしれない。それはどこまでも「当事者」ではない、わたしと同じ傍観者の目で。

この映画で取り上げられている山口県の上関原発建設に反対している祝島の人たちは26年間、「当事者」として活動している。環境活動家のように「地球のため」などと大きな理由ではなく、暮していく手立てを取り上げられないために。半農半漁の島で、森林を伐採し漁場を埋め立てる原発建設はそのまま、島で生きていく権利を奪われることだから。札束で横面を叩くようなやり方に屈しないために、高齢化がすすむ島が今まで通り、いやそれ以上に暮しやすくなるには何をすればいいか考えて、ひとつひとつを行動にうつしている。

反対運動してる人の多くはおばあちゃんで、それにすごく勇気がわいた。いや、本当は若い人が少ないというのはマイナスなのかもしれないけれど、でも畑のことをして、家のことして、子ども育てて、というようなごく普通の主婦といえるおばあちゃんたちが、デモ行進したり座り込みしたり*1、役所に乗り込んでいったり、電力会社の人に物怖じせずに意見を言って、そういう情熱をずっと持ち続け必死で島の暮らしを守ろうとしてることに、もしかしたらわたしも「当事者」になれるのかもしれないというような勇気だ。

「持続可能なエネルギー社会」とよく聞くようになった。日本でも実現化されるヒントが、映画でもたくさん提示されていた。わたしが以前から理想的と思っていた「地味に細々と暮していく」とも通じる社会で、ほんとうにそうなったらと想像もしてみるのだけど、いまの職場環境がマニアックな研究をしてる人たちが多く集まる場所なので、そういうの見てると教育や医療、技術はすこしでも国内に止めておきたいなぁ…とも思っちゃうし、でも莫大なお金と電力を必要とする研究の継続がゆるされ、未知分野の研究や最先端技術が望まれる社会と地味に細々社会は両立できるのか…と考えた途端、「こうなればいい」という具体的な像は輪郭がぼやけ、結ばない。当事者として何を取捨選択すればいいのか、これから考えなくてはいけないこと。

*1:座り込みのときはみな手弁当で、水筒に熱いお茶を入れて、なんだか遠足と錯覚してしまいそうなほどで、反対運動は日常でありイベントではないのだ。