欲望という名の電車

土曜日は渋谷パルコ劇場で公演中の松尾スズキ演出『欲望という名の電車』を観た。出かける前、身支度をしてるときにまた大きな余震があり、いろいろ不安なこともあったが、観にいってよかった。開演前に松尾さんのアナウンスで「こんな時勢に来てくれて感謝します」とあったけど、自分が残したいと思う分野には積極的に関わっていこうと思った。なけなしの収入を「生活不必需品」にかけることは、小市民ですからかなり大変ではあるんですけれど、でも生命維持に必要なものは何もしなくても残っていくけど、生きていくうえで必要な嗜好品や芸術というのは、受け取り手がいなければいともあっけなく失われるものだから。文学だって吟味できない読者が、わかりやすく迎合した軽い作品をつくりあげるのでしょうし。“後世に残る”ということは、そのものが持つ輝きだけに委ねられてるのではない。それに加えて“残したい”という多くの人の意思がそうさせるのだとわたしは思っている。

欲望という名の電車』(A Streetcar Named Desire)は、テネシー・ウィリアムズによる戯曲。ニューヨークにおいて1947年に初演された。1951年に映画化、1998年にオペラ化されている。
舞台はニューオーリンズ。粗野な工場労働者の妻を妹に持つブランチ・デュボアが、居候して巻き起こる事件を描いている。主人公は南部の没落農園出身の女性ブランチ。名家の栄光を捨てきれず社会に適応できない彼女は堕落し、やがて故郷を追われて妹のステラの下に身を寄せる。しかし、ステラの夫スタンリー・コワルスキーは退役軍人で粗野な工場労働者だった。ブランチは暴言・罵倒、挙句に隠していた過去を晒され、陵辱される。ブランチは精神的の均衡を失い…。(ウィキより引用)

いろんな役者さんで舞台、映画化されてる名作なのだそうだ。しかしわたしは今回初めて観たので、主演の秋山菜津子さん以外にブランチに成りえる人がいるのか?と思うくらい、本当にブランチがその場に生きていた。ルックスといい、声といい、「この人」のすべてがブランチだ。そのくらい真に迫って存在していた。“こうありたい”自分像と実体の乖離に自我を保てず、決壊していくブランチのさまは“見てしまった”という気持ちにさえなった。
言葉がとてもよくて、上下2段組で600ページくらいある文学作品を一気読みしたような充実感というか満腹感もあった。あとは場面転換の演出にプロジェクション・マッピングが使われていたり、深刻な題材のなかにしっかりとユーモアをちりばめていたことにも感嘆。

実は劇場に足を運ぶのは5年ぶりくらいで、たぶん宝塚の『ベルサイユのばら』以来だった(笑)音楽ライブもそうだけど、3月中はほとんどの公演が中止になって、予定通りやるのは今月からだと思う。ただ、まだみんな「そういう気分じゃない」ということあるでしょうから、チケットの売れ行きはどこもなかなか厳しいらしいと聞きます。遊んでる場合かって言われることも覚悟ですけれど、わたしはわたしの残したいものを大切にしたい。