納骨

父の納骨のため、土曜日から3泊で会津。青森新幹線が開通した4日は北日本で強風だったらしく、わたしが家を出る頃に運転見合わせの知らせが入った。ひとりであったらなら翌日にずらすところだけど、姉2号・甥2号と大宮で待ち合わせしており、メールで確認するとすでに到着しそうという。新幹線はほどなく運転再開したけれど、それでも車内が混雑したり、乗り換えの待ち時間が長くなれば子どもが退屈で暴れ出すのは目に見えており、姉2だけで手に負えそうにないと判断し、わたしも帰省強行。トラブルはひとりで遭遇すると途方に暮れるが、相棒がいれば楽しくなる。

新幹線は当初の予定の20分遅れくらいで郡山に到着したが、接続する磐越西線が2時間半後だというので*1 *2、初めて高速バスに乗った。郡山市内を回り高速道路に乗って1時間半で若松駅到着。道が混雑していなければ1時間程度で着くらしい。運賃は千円ちょうど、電車より少しだけ安い。バス、いいぞ。若松駅には姉1夫婦が車で迎えに来てくれていた。この日は会津名物の馬刺しで一杯やったあと、倒れるように就寝。翌日は甥1・姪1号も来て遊び倒す。前倒しで「お年玉」をあげた。甥たちが生まれてからお正月に帰省したことがなかったので、意外にもこれが人生初めての「お年玉あげ」体験。

納骨は月曜日。午前中にお寺へ行き、本堂で読経してもらったあと裏山にある墓へ。“石屋さん”と呼ばれている男性が作業服姿で、祖父母がすでに入っている墓を開けて待っていた。このお寺の墓の下は土で、骨を骨壷から出して土に還す。墓の下はコンクリートで骨は骨壷ごと入ってるものだとずっと思っていたので(祖父母の納骨には参列しなかった)とても驚いた。骨壷の一番上におさめられている頭の骨を、ひっくり返した蓋のうえに取り分けおき(これはわたしたち身内がやった)、それ以外の骨は“石屋さん”によってバラバラと墓の中へまかれる。最後に頭の骨を入れ、墓を閉める。黒く湿った土のうえにまかれた白い骨が、何年も波に洗われた流木や軽石のように見えた。父はなにか大きなものに吸収され、これからゆっくりと、その境界線はなくなってしまうのだと思った。

その晩は滅多に飲まない母にもビールを注いで、長話。母は、納骨が済んで肩の荷が下りたこと、この1ヶ月後悔ばかりが堂々巡りで夜になるときまって泣いていたこと、それにくらべ父の死にたいするわたしたちの悲しみが浅いように思うこと、わたしたち夫へのダメ出しなどなど、耳の痛いこともたくさん吐き出すだけ吐き出した。ふむふむと聞いていたが、ただ、父の死への覚悟というものは、一緒に生きてきた妻である母と、親はいつか死ぬと思いながら過ごしてきた子であるわたしとではまったく違うだろうことはことわっておいた。しかし余計薄情に聞こえてしまっただろうかと、なんだかもやもやしてきたので罪滅ぼしに年末も帰省することにした。婚家の手前年越しと元日には来られない姉1と、1ヶ月の間に小さい子を何度も連れまわしたくない姉2と、気落ちしている母をひとりで年越しさせるのはどうだろうかと話題になっていたのだ。夫婦ふたりきりの身軽さを今活かさないで、いつ活かすのか?という無言の圧力も感じたが。他人に干渉しないかわりに他人の意見など聞く耳を持たない夫が、自分が一番正しいと思い込んでる母の毒舌にどれだけ耐えられるか、今から気をもんでも仕方ないことだが憂鬱なことはたしか。

*1:その理由が、上りの電車が来ないために「運転できる電車がない」というもの。向こう側のホームには回送電車が停車していたのに…なぜ

*2:さらにこれらの案内はまったくアナウンスされず、知らないうちにホームの電光掲示板の発車時間が16時→18時に変わっていたので2階の改札口まで赴いて駅員に訊けば上記の回答である。どうなっている田舎のJR