読まなくても困らない

「1か月本読まず」52%…読売調査 10月24日(日)1時25分配信
 読売新聞社の読書に関する全国世論調査(9月25〜26日実施、面接方式)で、1か月間に1冊も本を読まなかった人は52%だった。この質問を始めた1980年以降では、2002年の54%、昨年と98年の53%に次ぐ高い割合となった。読まなかった理由(複数回答)は、「時間がなかった」46%(昨年51%)、「読みたい本がなかった」21%(同21%)、「本を読まなくても困らない」16%(同18%)などの順に多かった。

たしかに読まずとも困らないよね、本。いまでこそ月に10冊程度の本を読むけれど、そんなの2年前くらいからで、そもそも小説を買って読むようになったのさえたった5年前から。それまでわたしは「教科書とマンガしか読んだこと無い」としゃあしゃあと公言しちゃうほどで、3年前に角田光代さんと飲んだときに*1それを告白したら「あなたそれまでどうやって生きてきたの!?」と心底びっくりされたけど、角田さんみたいに小1ですでに「小説家になりたい」と思ってるような読書家からは想像もできない人生でしょうがしかし、わたしはごくごく普通に生きていた。

小学校のときに教科書とマンガ以外で読んだのは姉1が買ってたコバルト文庫氷室冴子新井素子)と『レ・ミゼラブル』と『ジェーン・エア』、中学校のときは音楽雑誌と永井路子田辺聖子の平安モノだけ(平安オタなので)、高校のときは思春期にわかりやすく太宰の何作品かと法律雑誌*2くらい。時間が有り余っていただろう大学時代に記憶に残る読書体験は一度もナシ。社会人になったら仕事関係以外の活字には見向きもしなかった。それで31歳まで生きた。

本を読むようになったきっかけは仕事を辞めて暇だったこと、近所に古本屋ができたこと*3、図書館の分館がすぐ近くにあると知ったこと、角田光代の本に出合ったこと。それまでわたしはフィクションを活字で読む面白さがわからなかった。フィクションはマンガや映画でてっとりばやく「映像」として観るのが簡単だし*4、同じ「人間を知る」ことなら音楽で十分だった。

わたしは音楽雑誌で活躍していた写真家の佐内正史さんの写真が大好きで、近所の古本屋で佐内さんの写真が表紙の本を見つけた。それは角田光代の『幸福な遊戯』の文庫だった。100円かそこらで買って読んだ。ものすごく読みやすかった。本を「当然のことを小難しく書いている」ものと思っていたわたしには新鮮だった。他の角田作品を読んでみてもふわふわした甘さがないのが好みだった。エッセイを読んだらちっとも偉ぶらず、あけっぴろげで面白かった。作家なんていうのは部屋に閉じこもって偉そうなことを言ってる人だと思っていたわたしは、だから驚いた。

角田さんが多作なのも幸いし、それから一気に過去作品を読んだ。そのうちに角田さんが書評で取り上げたもの、対談した相手の作品、仲良しの作家の作品…と興味は広がり、読み進むうちにどんどん面白い本は増え、読みたい本が増えていく。生きているあいだに読みたいと思うすべての本を片づけられないだろうと思うと、ちょっと叫び出したい気持ちになる。だから、結局は「読まなければ、読みたいとも思わない」ということなんだと思う。読む人は際限なく読むけど、読まない人は興味も湧かない。

夫はゲーム好きで既存のハードは全てあるし、年間10数本のソフトをこなす。仕事がハードなので、家にいる時間はひたすらゲームに当てられる。したがって小説など一冊も読まない。家で本ばかり読んでいるわたしはゲームを一本もしない。ゲームをせずに成長したため親和性が足りないのと、大人になってからやってみてもゲーム素養が全くないのだとわかったことによる。で、そういうことだと思う。世間には読書が高尚で、ゲームは幼稚と観る向きがまだあるけど、長編小説を読むほどの分量のあるテキストベースのゲームだってあるし、夫を見る限りではわたしよりもずっと大人の思考力を持っている。

なにかひとつでも「これ好き!」ってものがあるだけで、よいのではないかと。読書それだけを取り上げて、その人の教養を量ることはできないと思うし、本以外に情報を得る手段は今たくさんある。そういう情報を自分のものにするための、社会人に必要な読解力なんて国語の教科書さえ読んでいたら身につく。現にわたしの得意科目はずっと国語だった。苦手な数学でも証明は得意だった。あとは、本を全く読まなかった時期の日記のほうが、文章に勢いがあって面白かったなあと思っている。

幸福な遊戯 (角川文庫)

幸福な遊戯 (角川文庫)

*1:これは一生の思い出です…

*2:いしかわじゅんが『鉄槌!』を連載していた『ワトソンJAPAN』という雑誌で、早々に休刊w

*3:2年前に閉店、のち幼児向けの英会話教室が開店した

*4:しかし映画もあまり観なかった